彼のオートバイ、彼女の島

バイク小説が読みたい!と思い立ち、検索すればこの作品にたどり着いた。

初版は1980年に発行され、現在は中古価格も高揚している。

 お手頃な価格の電子書籍があったので、購入して読んでみた。

 

夏と、島と、オートバイ。
退屈を知らない日々のためには、
まずその3つが必要だ。

一度目は高原の道で。二度目は共同浴場で。
偶然の出会いが2度あった「彼女」は、
もう無関係な他人ではない。
仕事や悩みが毎日の多くの時間を占めてしまったとしても
ひとたびオートバイに乗り、歓びを分かち合う人が隣にいて
風が、道が、光が、山々が、自分と一体になってしまえば
もはやそこに退屈の入り込む隙間はない。
夏という時間、島の時間を生きる彼ら彼女らは
限りなく自由だ。

 

と、このような紹介文が書かれている。

著者の作品は読むのは初めてだったのだが(むしろあまり小説を読んだことがない)

読みやすく、あっという間に読み終えてしまった。

この本が発売されたころ、僕は生まれておらず、時代背景も知らない。

まして、主人公たちは今の僕よりもずっと年下である。

もちろん、携帯電話もなく、手紙もしくは電話でやりとり。

主人公は急ぎの原稿をバイクで出版社や官公庁へ配達する仕事をしている。

今ならメール、FAXで済む仕事だろうか。

 

なのに関わらず、どこか懐かしく、切なく、

過ごしたはずもない、古き良き時代(この例えがあっているのだろうか)

を思い起こさせた。

 

主人公たちがバイクで走っている、

すごく爽快感を感じる描写だ。

でも、それ以上に、

儚さ、まるで蛍の光のように

永遠に続くことはないモノを

見ているような気がした。

 

ノスタルジー、切なさ、儚さといった言葉で僕が連想するものは、

 

「秋の夜、風呂上がりでベッドに潜り込み、頭がまだ完全に乾いていないままに虫の鳴き声を聴きながらウトウト眠りに落ちる」

 

こんな状況だ。

 

意味がわからないと思うが、

この状況に僕は懐かしく、切なさをすごく感じる。

 

うまく言えないが、この本もそんな感じだった。

 

人も車も途絶えた交差点の赤信号でとめられていたとき、このオートバイのアイドリングを聞いていて、僕は泣き出したのだ。

(中略)

心から愛している直立2気筒の、エンジンがいま生きて動いている。

またがって赤信号を見つめているぼくも、生きている。

ふたつの心臓が、鼓動している。

その鼓動が、みごとに、つながった。